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日本の文化をアジアに伝承して行く活動への覚醒め
JCAT(ジャパンカルチャーアジアトレーディング)の代表茂木龍一郎です。
2010年12月31日、
約12年近く勤務していた会社を退社。それまでメーカーの海外駐在員として滞在していた
中国広東省、広州市を家族と共に離れ。マレーシアのリタイアメントビザ、
MM2H(マレーシア・マイ・セカンド・ホーム)を取得。脱サラ後の生活として憧れていた、
南国のセミリタイアメント生活を送っていました。「財テク」が功を奏し「アーリーリタイアメント」
メーカー勤務時代、
コッソリ自分で行っていた、
アジア各国の成長を活用した「財テク」のお陰で。再び会社勤務をしなくても、
生活に困ることはありませんでした。俗に言う
「アーリーリタイアメント」というやつです。2人の娘たちは、
ジョホールバルに進出したばかりの、
ラッフルズアメリカンスクール(Raffles American School)に通学。毎週末は車で
ジョホールバルのすぐ隣にある、
アジア最大級の都市シンガポールへ。金・土・日と、週末の2泊3日を、
シンガポールのホテルで過ごす。そんな、
ジョホールバルの自然と、
シンガポールの都会。両方を楽しんでいたのです。
旅好きな僕は、
それだけに飽きたらず、家族をジョホールバル&シンガポールにおいていく形で、
月に大体半分をアジア各国を旅しながら過ごしていました。旅先として、
毎月必ず行くのは、香港・澳門・中国広東省の、
黄金三角地帯と呼ばれる場所です。2003年から2006年まで、
勤務していたメーカーの海外駐在員として香港勤務。2006年以降は、
中国本土の上海へ6ヶ月間。その後は新たに、
中国広東省広州に事務所を設立して転勤。退社までを、
広州を拠点にして活動をして来た僕。香港、広州それぞれから、
約2時間で到着できる澳門含めて、黄金三角地帯を周知していることもあり。
やはり、
慣れ親しんだこの土地は好きで、
毎月必ず1回は、
各国から集まる旅の仲間たちと、
現地で集合する形で入って過ごしていました。さらには、
台湾、タイ、フィリピン、ベトナム・・・。かつて僕が営業&マーケティング担当として、
出張対応で行っていた場所にも、「財テク」活動の関係もあり、
定期的に訪れていました。約2年半に及ぶ「アーリーリタイアメント」生活
南国をベースに暮らし、
アジア各国を自由自在に旅する、かつて憧れていた「アーリーリタイアメント」生活を
実現することができました。メーカー勤務時代、
約12年間・・・一時も休まず、
ノンストップで馬車馬のように働き続けていたこともあり。「アーリーリタイアメント」
と呼ばれるものに、
ずっと憧れを抱いていたのです。憧れの「アーリーリタイアメント」
=赤道直下の自然あふれる南国
=日本人がリタイアメントビザの取りやすい国
=マレーシア
・・・この連想に基いて
マレーシアに辿り着いたのです。その中でも、
現地の銀行から融資を受ける形で、
不動産を3件購入するに至った、ジョホールバル。
ここに集約されるようになりました。
そして、
2010年12月31日・・・会社を退社。「アーリーリタイアメント」を実現させました。
「アーリーリタイアメント」実現後。
毎日気の向く時間に起きて、
眠たくなったら眠る。子供の学校の行事にも、
ジョホールバル滞在中はフル参加。2011年・・・
2012年・・・
2013年・・・
「アーリーリタイアメント」な日々を、
気がつけば約2年半も送ってしまったのです。ところが・・・。
実際にやってみるとそれは、
僕が本当にやりたいこととは違うことに気づきました。単に100キロ超えのデブになっただけでした
「アーリーリタイアメント」してから、
約2年間が経った頃でしょうか?ふとした時に、
体重計を測ってみると100キロを超えていました。鏡に写ったブクブクの姿の僕。
暴飲暴食と運動不足の不摂生で、
どこかが悪くなってしまったのでしょうか?何をやってもやる気が起こらない状態になってました。
ただ単に、南国の緩さに身を任せる日々。
自分自身の今を見ないようにするかの如く、
過去の想い出に浸る日々を送っていました。日本から取り寄せたり、
週末シンガポールに入る度に買ってくる、
日本酒の八海山と久保田を、
飲み続ける日々を送っていました。僕自身がどん底まで落ちていくのを感じました。
「アーリーリタイアメント」・・・
僕にとっては何も得ることはできず、
単にデブになっただけだったようですが。その事実からは、目を背け続けていたのです。
そんな時、ジョホールバルに、
一人の日本人の中医師が引っ越して来たのです。恩師中医師、氏家直哉先生との出会いで再起
初めての出会いは、
ジョホールバル日本人会が主催した、「ジョホールバル盆踊り大会」の会場です。
日本からやって来られた、
中医師の先生が、ブースを出されていると聴き。旅仲間でもあり、I.T.企業のオーナーでもある、
平城寿さんと一緒に、ブースに行きました。目がパッチリとした、
髭ヅラの御方・・・。見るからに只者ではありません。
そして僕を見るなり・・・
「あちゃー。肝臓が酷いことになっているね!
体中滞りだらけになっているよー。」イキナリの先制攻撃をくらいました。
僕がまだ何も言っていないのに、
僕の体を見るなり僕の体の問題を指摘したのです。その凄まじい決めつけ具合に、
当然ながら半信半疑になりながらも・・・。まあ、それほど毎日やることもなかったので、
ジョホールバルに引っ越してきて、
正式に中医学による治療院を開業させたタイミングで、僕がジョホールバル滞在中は、
週に2回位の頻度で通うことになりました。週に2回の通院では、
足を中心とした経穴のマッサージをしてもらいました。漢方薬をもらい、
毎日飲むことにしました。ステップバイステップで、
食事制限をすることにしました。すると・・・
1ヶ月後、2ヶ月後、3ヶ月後・・・。
「パパ大丈夫?」
家族から心配がられました。
「孔明さん、どうしたんですか?」
旅の仲間たちと会う度に驚かれました。
なんと、
体重が100キロ・・・95キロ・・・90キロ・・・
85キロ・・・80キロ・・・日を追うごとに下がって行きました。そしてとうとう4ヶ月後には、
体重75キロで落ち着いてしまったのです。体重75キロは、中学生以来初めてです!
さらに驚くべきことに、
小学校頃から慢性的に抱えていた、花粉症、アトピー性皮膚炎、鼻炎、喘息、
これらの症状が治ってしまったのです。原因は・・・
中国本土での一気飲みバトルによる後遺症。
さらには、その後の食生活と不生活。
肝臓がぶっ壊れていたようです。小さい頃から、
砂糖、油、炭水化物・・・。化学調味料が入った食べ物。
大好きでしたからね。。。
これも悪い下地になってしまっていたようです。
中医としての治療によって
肝臓を治療してくれたことにより、
体重が減るのと同時に、全ての症状が良くなったようなのです。僕の肝臓を治療してくれた、
この髭ヅラの御方は、
「双龍門」第76代掌門(継承者)氏家直哉先生。アジアでビジネスを行う人なら知らぬものはいない、
あの故・邱永漢(きゅうえいかん)の
生前の主治医でもあった経歴を持つ方だったのです。肝臓はやる気を創りだす臓器とのことです。
確かに、
肝臓が治るどころか、
以前よりも良い状態になったことで、やる気というものが、
次から次へと湧いて来るようになりました。そんな中で、万全の体調であると実感すると共に、
やる気が最高潮になって来た時。僕が本当にやりたいことは何なのか?
それが明確に頭の中に浮かぶようになったのです。
それは・・・貿易です。
僕が2003年から2010年末まで、
ずっとやって来たのも貿易です。日本で開発された商品を、
メーカーとしてアジア各国へ拡販させる、
貿易活動を行って来ました。僕がこれからやりたいのは、
その発展版とも言える、
さらなるステージへ。商品・コンテンツの貿易活動を通して、
日本の文化をアジアに伝承して行くこと。この活動を、僕の人生をかけて行いたい。
そう、強く思うようになったのです。
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